事務局ブログ
本校にも分校があった。それは「三川分校」
2018-12-14
三養基高校に唯一存在した分校がありました。三川分校です。
昭和28年、三川村長(現みやき町)大坪司馬男氏を中心とした定時制分校誘致活動により、三養基高等学校三川分校が誕生しました。三川小学校と中学校のグランドを区切るように南北に横たわる旧三川実業青年学校の校舎を使用しました。
初代分校主任には三川村出身の大石春夫先生が着任し、基礎作りに努力されました。そして昭和30年に三川村と南茂安村が合併。昭和32年に吉戒春城先生が分校主任に就任なさいました。
吉戒先生は、当時の三根村は、両村が合併して日も浅く、すべてが二派に分かれる傾向が強かったので、
「解消するためには一日も早く両方の中学校を統合して、小さい頃から十分知り合う村民を作ることだ。」
「そして、余った中学校のどちらかを譲って頂ければ、三根地区に独立高校の夢も実現されましょう。」
と村長や議員の方々を説得されました。しかし、それも実らず、昭和34年募集停止の宣告を受けたそうです。
三川分校から巣立たれた約90名の先輩方は、心の中に分校の思い出を宿し、各方面で御活躍なさったことと存じます。
私は、同窓会事務局のお仕事を始めて5年目になりますが、まだ1度も三養基高校三川分校の卒業生にお会いした事がありません。
養基80周年記念誌の旧職員横尾和夫先生からの寄稿「三養基の思い出-40年前」によると、三川分校では、鍛冶屋さんの「トッテンカン」の音、豆腐屋さんの「トーフー」のラッパの音が聞こえ、とてものどかだった反面、利かん坊な生徒も多かったと記してあります。
そして一番懐かしく印象に残る生徒達だったと
先日、六田旭豆本舗へ行きました。店の奥様と話をすると、なんと子供の頃三川分校の横を通って小学校へ通っていたそうです。横を通るときに学生と手を振っていたとか。
当時の塀が残っていると聞き、早速行ってみました。
昭和33年に旧三川村役場を改造し、三川分校の校舎として約4年間使用していた時の塀です。塀の奥から笑顔で手を振る学生の姿が目に浮かびます。
ぜひ一度お会いして当時の話を聞かせていただきたいものです
養基同窓会事務局