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福岡養基会

福岡養基会からのお知らせ✨

三養基中学最後の卒業生より寄稿が届きました!

2024-10-29
 先日三養基中学最後の卒業生より、福岡養基会へ寄稿が寄せられましたので、ご本人の許可を得て皆様にご紹介いたします。



三養基中学校の5年間を振り返って ー戦中戦後の激動の5年間

杉山義典 旧中26回生 (93歳)
 
 私達が生まれた昭和6年は「満州事変」の起きた年であり、その後に続く日中戦争~第二次世界大戦の期間は小学生であり中学生であった。軍国主義教育の渦中で育ち「天皇は現人神」「一死報国」「欲シガリマセン勝ツマデハ」等、無数の標語が私達をがんじがらめにした。

 昭和18年4月三養基中学校に入学した。丁度 長兄が三養基中学を卒業し、入れ替わるようにして勇んで通学を始めた。鳥栖駅より中原駅までの汽車通学。学科も国語、文法、代数、幾何、化学、物理など初めて教わるものばかりでワクワクしながら中学生活の始まりであった。服装は三養基中学の紀章のついた帽子をかぶり長ズボンの学生服を着て、少し大人になったような気がして嬉しかった。また中学に進学した者は少なかったので誇らしくもあった。太平洋戦争も3年目に入り、戦況は厳しくなり山本五十六連合艦隊司令官が戦死された。
 中学校には正課として「軍事教練」があった。1年生は徒手教練で不動の姿勢から閲兵分列、速歩行進、駆歩行進、射撃姿勢など軍隊の兵士の教練と全く同じ厳しいものであった。1年生は木銃であったが、4年生になると本物の銃をそれぞれに与えられ、責任も持って手入れと保管の重責を担わされた。そのため5~60丁の銃が校庭の脇にあった保管庫に収められていた。各中学校には配属将校がいて、教練の教官でもあった。1年生の時の配属将校は、毎日サーベルを腰に長靴を履いた軍服姿の退役将校であった。しかし息子が在校生であったことで、親しみがあり、私達も親父のように感じられ教練も苦にならなかった。
 
 2年生になると配属将校も現役の将校に替わり軍事教練も一段と厳しさを増した。柔道と剣道はどちらかを選択制であったが、私達の時から両方共に必須科目になった。しかし柔道着も剣道道具も足らず道場もいっぱいで結局基本の技も見につかなかった。その他に「一万米マラソン」と言うのがあり、多くの中学校が採用していた。コースは正門を出て左(鳥栖方面)へ走り、我々の先輩で真珠湾攻撃において特殊潜航艇に乗り戦死し軍神として祀られた広尾大尉の生家に参拝して帰る行事があり途中坂もありで苦労した記憶がある。毎年中学1年生、2年生より選ばれて陸軍幼年学校へ進む途があった。クラスでトップの生徒は学校の推薦を受けて幼年学校に進んだ。
 私もこれに憧れて学校の推薦を受けないままに受験して見事に不合格となった。同級生でトップの生徒が一人合格し、その途に進んだ。 後年、再会したとき彼は気象庁の幹部になっていた。
 中学2年生になると戦況は益々悪化した。6月には北九州にアメリカのB29と言う爆撃機が来襲した。プロペラ4つを備え銀色に輝き1万メートルの上空を悠々と飛んだ。米の御飯も完全に消えた。代用食と称して芋、かぼちゃ、雑穀トウモロコシ、大豆を食べた。服も靴も消えつぎはぎだらけの学生服にボロボロの靴とだんだん惨めな姿となっていった。学校で支給される学生服もスフと称する人工繊維の薄っぺらなもので、夏冬兼用。靴もサメの皮で作った革靴が支給されたことがあったが、一度雨に濡れただけでボロボロになった。このような中でも中学2年生までは正規の授業を1日も休まず受けることが出来た。
 陸軍士官学校、海軍兵学校へは中学4年生と5年生に受験資格が与えられていた。陸軍には士官学校の予備校に当たる幼年学校があったが、それまでは海兵にはその予備校に当たるものが無かった。昭和19年に海兵予備校を開校することになった。その受験資格として佐世保の海軍基地で訓練を受けることが条件となった。九州中の中学生が集められて、私も応募した。大浦湾に係留されていた日露戦争で戦った戦艦(名前は忘れた)に乗り、約2週間ほど激しい訓練をうけた。しかし開校試験を受けたか否か記憶にない。
 
 3年生になると戦況は益々悪化。沖縄に米軍が上陸して本土決戦が叫ばれるようになった。軍隊が九州に集結してきた。私達にも学徒勤労令、女子挺身勤労令が公布された。3年生は5月1日付けで、福岡陸軍糧秣廠朝日山現場に学徒動員された。それから毎日学校へは向かわず、迎えのトラックの荷台に乗せられ現場に向かい土建作業についた。制空権は完全に米軍に握られ毎日戦闘機(グラマン)に襲われた。特に鳥栖は機関庫があったため狙われた。その中の1機が必ず我々のトラックに向かって機銃掃射を始めた。ものすごい轟音に腰を抜かし、トラックを飛び降り畑の中を逃げまどい農家の軒先に隠れるのが毎朝恒例行事となっていた。しかし誰も撃たれたものはいなかったし、10分位経つと何事もなかったかのようにトラックに乗り現場に向かった。
東京、大阪、博多も焼野原となり、広島、長崎には原爆が投下され沢山の人々が亡くなった。そして敗戦の日を迎えた。中学3年生の昭和20年8月15日の事である。当日は非常に暑い日であった。叩きつけるような蝉の声が響いていた。
 重大放送は雑音で全て聴き取れなかったが、一切のものが動きを止め不気味な静寂に包まれていた。空襲警報に悩まされることもなく、これで眠れるという安堵感にホッと救われた気持ちになったことを覚えている。
 暫くして学校が再開された。 校舎の一部は無線機の工作が行われていたのか部品が散らばり校庭も荒れていた。しかし全体として爆撃の被害もなく無事であった。学友も皆無事で誰一人欠けずに集まった。全校生徒が集められ校長の訓示が始まった。 校長の第一声 軍国主義は悪いことであり民主主義が正しいことであるとの声高い発声で始まった。それまで全て御国の為、天皇陛下の為滅私奉公との教えを守ってきた生徒にとって校長先生の豹変にショックは大きく、非常に激しい衝撃があり、ぶつけようのない怒りの感情がくすぶった。そういう中で学校は荒れ、暴力が横行し、刃物を振り回して級友に切りつけ退学となった者も出た。その男と再会したとき、彼は一部上場の機械製造会社の専務取締役になっていた。
 敗戦と同時に最大のツケが襲ってきた。「飢餓」と「ハイパーインフレ」であった。食糧不足は敗戦前から続いていたが、本当の食糧難はこれからであった。食べ盛りの我々にとっては死ぬほどひもじい試練が襲ってきた。食べられる物は全て食べつくし、飢餓は極限に達していた。病気もせずこの危機を乗り越えられたことを両親の苦労に感謝している。後日同窓会でこの事が話題に上ると、異口同音に「戦争は絶対にダメ」と一致した認識であった。我々は生き延びたが、幼い子供にとって栄養失調で流行した赤痢に多くの生命が奪われた。私も妹を失った。ハイパーインフレは庶民の生活を直撃し、貨幣は信用を失い紙切れ同然となり、物々交換の時代となった。
 3年生の後半ごろから学園民主化を叫んで学生運動が激しくなっていった。三養基中学でも我々3年生が、何が目的で何が不満だったのか思い出せないが、授業をボイコットして綾部神社に立てこもる事件をおこした。マッカーサー率いるGHQの支配下に置かれたが、兵隊は予想したより紳士的な者もいて、片言の英語を口にすると親近感をもって接してくれた。テロ行為などトラブルもなく国民は占領を受け入れていた。憲法改正により国民主権を始め色々な改革がなされた。そして何よりも6.3.3.4制の学校制度改革の先兵に立たされた。三養基中学の5年間は天と地がひっくり返る激動の中をくぐりぬけてきたのである。
 
 4年生になった。当時中学校は4年制に短縮されていたので、上級生は卒業していたので我々が最上級生になった。戦争中一切閉ざされていた文学、詩歌、音楽など一挙に解放され、文学全集など寝る間も惜しんで読みふけった。学校も落ち着きを取り戻し、正常化していった。
 21年8月には甲子園(高校野球)も再開した。三養基中学ではスポーツと言えば、柔道 剣道以外は無かったが、他校では色んなスポーツが始まっていることを知った。体育の先生がテニスをやったことがあると言うので、テニスコートぐらいなら自分達で作れるのではないかと級友達と相談し、ローラーを引いてコート一面を校庭の片隅に作った。ネットや道具一式を博多の闇市で手に入れ、庭球部が発足した。これがきっ掛けとなり、走る者やキャッチボールを始める者が出てきて学校全体が明るくなった。他校に少し先んじていたのか、佐賀県体育の発展に多大の力を発揮し、しかも学業でも優良との賞状を戴き大変おどろいた。いささかでも三養基中学の為に貢献したのではないかと自負している。
 我々の中には5年の旧制度のままで卒業した者もいたが、多くは新しい三養基高校3年生に編入することになった。そして大学受験資格も得ることになった。
 新しい教育基本法により、それまでは大学と言えば九州大学一つだけだったのが多数の大学が増えたことで高等教育への途が開かれた。高校三年生になって大学への進路を考えるにあたり、始めて学力不足に気づいた。激動の5年間を潜り抜ける間に標準の学力を大きく下回っていたのである。1年から5年までの教科書を洗い直し、学力の回復に努めたが、どうしても苦手な数学が理解できず最後は他の科目で補うかしかないと覚悟していた。しかし、幾何学の先生でポテシャン先生(本名が思い出せず申し訳ない)が卒業間際の最後の授業で、試験によく出る問題を数学の方式でやると大変難しく時間もかかるが、幾何学でやると簡単に解けるからと方式を教えてくださった。試験当日の数学はポテシャン先生の言う通りの問題が出て、教え通り幾何学で回答。満点がとれて余裕をもって合格できた。数学が満点で総合点が底上げとなり、4年間学費免除と奨学金を戴けることになった。ポテシャン先生には心から感謝している。三養基中学 高校を通して最後の一年は苦労したが皆全員無事卒業した。
 
 私の人生を振り返ってみるに、この三養基中学校、高校の5年間が最も大切な時間であった。この期間は私の人格形成に大きな影響を与えた期間であったと思う。「母校三養基の名に副わん」戦中戦後の困難に堪え、一人の脱落者もなく向学心を持ち続け卒業できたことは奇跡と言う外ない。
 「志学の目途永久に祖国日本の上に置く」即ち 日本を背負う若人に育てと格調高い校歌にいつも勇気づけられた。この校歌を愛おしくおもう。

 この手記を終えるにあたり心残りがある。
 今も世界の各地で戦争が起こり市民が殺されている。どうしたら戦争のない平和な世界が作れないのだろうか。戦争で最大の生命を失った被害国である日本こそ行動を起こすべきである。志のある方がいれば一緒に子供たちの将来を守ってきたいと思っている。
    
筆者略歴  杉山義典 (93歳)鳥栖市生まれ
      昭和28年九州大学法学部卒業
      三井海上火災保険(株)代表取締役専務後退任

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